翌朝――オフィスで琢磨は翔からの電話を受けていた。「ああ、大丈夫だ。こっちのことは心配するな。……何言ってるんだ。そんな事は今更だろう? ……うん。急ぎの案件はこちらで処理して、後でメールするから安心しろ。なあ、翔……。これは俺からの提案なんだが……。え? ああ……そうか。悪かったな。それじゃ電話切るぞ。じゃあな」ピッ琢磨は翔からの電話を切ると溜息をついた。「翔……。俺は明日香ちゃんよりも……お前の身体の方が心配になってくるよ……」(何とか翔の負担を少しでも減らしてやらないと……)琢磨はPCのメールを立ちあげると、メッセージを打ち始めた――****「ああ~。やっぱり家はいいわねえ……」明日香は伸びをしながらリビングのソファに座った。「明日香。今日は家でおとなしくしているんだぞ?」荷物を持って後から部屋へ入って来た翔は明日香に声をかけた。「はいはい、分かってるわよ」明日香は背もたれによりかかりながら返事をした。その時翔が着替えを持ってバスルームへ行こうとしているのに気が付き、声をかけた。「あら? 翔。シャワー浴びるの?」「あ、ああ……。結局昨夜はそのまま着替えもせずに寝てしまったからな」「あら? 私のせいだと言いたいのかしら?」明日香はジロリと翔を睨む。「何故そう思うんだ?」「だって今貴方がシャワーを浴びるってことは、私がこの部屋に昨夜帰らせずに着替えを取りに戻れなかったからと言いたいんでしょう?」「別に俺は何も言っていないぞ?」翔は明日香の隣に座るった。「だいたいねえ……。私が入院になったって聞いた段階で、一緒に病院に泊ろうって考えるのが筋じゃないの? 最初からそう考えていれば、自分の着替えを持って来ようと言う考えに至ると思わない?」「あ……」翔は唖然としてしまった。まさか明日香がそこまで考えていた等想像もつかなかった。「そうだよな……言われてみればそのとおりだった。お前が入院したなら、付き添い位考えれば良かったな。明日香。俺の考えが至らなくてすまなかった」明日香の頭を自分の肩に抱き寄せる翔。「いいのよ……。分かってくれれば。だから、翔。お願い……絶対に私を1人にさせないでよ?」明日香は翔の胸に顔を埋めると懇願する。「ああ、分かってるよ。明日香……お前を決して1人にはしない……」(今の明日香はあの時と
「ふう……。今回は父のお陰で助かったな……。いや、そんな言い方をしては駄目か」翔は口元に笑みを浮かべると考えた。(それにしてもおかしい。妙にタイミングが良すぎだ。偶然だろうか……?)「まさか……な。だが……何かおかしい」翔は念のために琢磨に電話を入れた。何回かの呼び出し音の後、琢磨が電話に出た。『もしもし。どうした翔?』「こんな時間に悪い。実は先程会長から電話が入ったんだ。マレーシア支社でトラブルがあったとかで、そっちに向かわなくてはならなくなったと。だから今回の会長の帰国は取りやめになった」『ああ、そうか』「そうかって……やけにお前、あっさりしてるな? もっと驚くかと思ったが」『そうか? でも予定が変わるのは別におかしな話じゃない。いつものことだろう?』「いや、いつもと違って妙な感じがある。……琢磨、正直に答えてくれ。お前……何かしただろう?」『何かって……何をだ?』「おい、とぼけるな。お前……父に何か話をしたんじゃないのか?」しかし、中々返事が無い。「琢磨、黙っていないで答えろ』『分かったよ……。そこまで気付いているなら話すよ。実は社長に明日香ちゃんのこと……伝えたんだよ』「! おまえなあ……! 何か余計なこと話したりしていないよな?」『ああ、安心しろ。明日香ちゃんがお前と一緒に暮らしてるなんてこと、口が裂けても話していない』「それじゃ……何て言ったんだ?」『最近、明日香ちゃんが精神面で弱っている。この状況で会長と会った時、明日香ちゃんがどうなるか心配だって相談したんだ。言っておくが俺がこの話をしたのは明日香ちゃんの為じゃない。お前と朱莉さんを心配してのことだからな?』「俺と朱莉さんの為……?」『そうだ。朱莉さんの件からずっと明日香ちゃんの精神状態がおかしくなったのは確かだ。だが、それは朱莉さんには何の落ち度もない。むしろ彼女は俺達の計画に巻き込んでしまった哀れな被害者だ。それに翔、お前はある意味自業自得ではあるが……ここまで明日香ちゃんの精神状態がおかしくなるとは思わなかったんだろう?』「ああ……」偽装結婚の話は明日香と何度も話し合って、互いが納得して決めた事であったはず。なのに朱莉という書類上だけの仮の妻が現れた途端、明日香はおかしくなってしまった。いや、正確に言えば朱莉の美貌を目の当たりにした途端、明日香が
季節が移り変わり、いつの間にか12月になっていた。休憩時間、オフィスの窓から翔と琢磨は外の景色を眺めながらコーヒーを飲んでいた。「世間はもうクリスマス一色だな」琢磨は翔を見ながら話しかけた。「ああ…本当に早いものだな…」翔は窓の外をじっと見つめながら何か考えごとをしているように見える。「どうした? 翔。何考えているんだ?」琢磨は翔の様子に気付き、声をかけた。「あ、ああ……。実は明日香からクリスマスプレゼントは今年は俺が選んでくれって言ってきて困っているんだ。20代の女性が好むプレゼントって言うのが俺には良く分からなくてな……」「へえ~。いつもなら毎年明日香ちゃんが自分の方からリクエストしてくるのに随分変わったな? これもカウンセラーのお陰じゃないか?」「ああ……。そうかもな。琢磨、ありがとう。お前のアドバイスのお陰だよ。あのまま何もしないで放っておけば今頃明日香はどうなっていたか分からないよ。それにカウンセラーのお陰で、明日香は家政婦も受け入れてくれたしな」翔は笑顔で言った。今、明日香と翔の元には月曜~金曜日まで家政婦協会からベテラン家政婦が派遣されて来ている。その人物もカウンセラーからアドバイスを受けて、条件にかなった人物を探し出し、専属の家政婦をやって貰っているのだ。家政婦として雇った相手は60代の女性で、若い頃は秘書として働いていた。きめ細やかな所まで行き届くように世話をしてくれる素晴らしい家政婦であった。カウンセラーと家政婦のお陰で翔の負担はあの頃とは比べ物にならない位に楽になった。カウンセラーと家政婦には当然翔と明日香の関係を……そして朱莉と言う偽装妻の存在も打ち明けていた。その際、絶対に誰にも口外しないことを条件に告白していた。そのことをカウンセラーと家政婦に伝えた所、自分たちをあまり見くびらないでくれと叱責されたほどであったのだ。「琢磨。本当に感謝している。お前がいなければ、今頃どうなっていたか分からないよ」すると琢磨が肩をすくめる。「あのな、俺は別に明日香ちゃんの為だけを思ってアドバイスをしたわけじゃないぞ? お前のことや、それに朱莉さんのことを心配して言ったんだからな?」「ああ。勿論分かってるさ」苦笑する翔。「あ、そう言えばさっき明日香ちゃんへのプレゼント何がいいか考えていたよな?」「ああ。そうだ」
「どうした? 琢磨?」「翔! お前、本気でそんなこと言ってるのか? 尋ねる相手と言ったら朱莉さんに決まっているだろう!?」「あ……ああ。そうか……朱莉さんか……。頼む、琢磨。お前から朱莉さんに聞いて貰えるか? 彼女にプレゼントしたいからと言ってさ」「翔! 俺には今付き合ってる彼女はいないぞ?」琢磨は睨みつけた。「そんなのは勿論分かってるさ。ただ……」「何だよ? 今まで黙っていたけど……お前、朱莉さんとは連絡どうしてるんだ?」琢磨の射抜くような視線に翔は溜息をついた。「実は初めて明日香をカウンセラーに見て貰った時に言われたんだ。明日香を少しでも安心させるように、当分の間朱莉さんとは連絡を一切取らないようにって。そのことは最初に言われた時に、朱莉さんには説明したよ。悪いけど、暫く連絡を取ることは出来ないって。まあ、今のところ親族との顔合わせも予定していないし会長も結局年内には帰国できないことが決まったしな。朱莉さんも俺達と関わらない方が気楽だろうから、いいだろう」「何だって? そんな話は初耳だぞ? 明日香ちゃんには内緒でもう一度カウンセラーに相談してみろよ。あれから3カ月は経過している。?もうすぐクリスマスなんだし、このままにしておいていいはずはないだろう?」「……」「何故そこで黙るんだよ?」「いや……一応ボーナスの上乗せは考えているんだが……それだけではまずいだろうか?」翔の言い分に琢磨は唖然とした。「本気で言ってるのか? お前と明日香ちゃんはこれから2人だけのクリスマスのイベントが結構入っているじゃないか? それなのに朱莉さんは? 偽装妻であることがバレないように極力親しい人達との連絡も取らないようにって最初に結んだ契約書の中にあったよなあ? 朱莉さんだけ寂しい思いをさせて、自分たちはクリスマスを楽しむつもりか?」「琢磨……」(琢磨の言う事は尤もだ。朱莉さんとは書類上とは言え、正式な妻であるには変わりない。だが、明日香の嫉妬から守る為に放置してきたのは良く無いかもしれない。俺としては暫く朱莉さんとの連絡を絶つことが、彼女にとっても最良の方法かと思っていたのだが……)「分かったよ、琢磨。明日にでもカウンセラーの女性に朱莉さんと連絡を取り合ってもいいか確認してみる」「ああ、是非そうしろ」琢磨は残りのコーヒーを一気に飲み干した。「
「朱莉。もう鳴海さんと入籍して半年以上経つけどまだ会う事はできないのかしら?」今日も朱莉の母――洋子は面会に訪れた朱莉に尋ねた。「うん、ごめんね……。翔さんて、鳴海グループの副社長で凄く忙しい人だから、どうしても面会に来る事が出来なくて」朱莉は母の為にリンゴの皮を剥きながら俯き加減に答える。「そうなの?」「うん、だからもう少しだけ待っていてくれる」朱莉は寂しげに笑った。「え、ええ。分かったわ。ところで朱莉……」「何? お母さん」「朱莉、今……幸せに暮らしているの?」「嫌だなあ。お母さんたら。幸せに暮らしているに決まってるでしょう? はい、リンゴ剥いたから食べて?」朱莉は笑顔でに皿に乗せたリンゴを手渡した。「ありがとう、朱莉」「お礼はいいから早く食べてみて? すごく美味しいんだから。翔さんがお母さんにって買ってきてくれたんだから?」「そうよね……。いつもありがとうございますってお礼伝えておいてね?」洋子は弱々しい笑顔で朱莉に言った。「うん、勿論。ちゃんと伝えておくね」洋子は一緒にリンゴを食べている娘の横顔をじっと見つめながら思った。朱莉は幸せに暮らしているのだろうか? とても今の様子を見る限りは幸せに暮らしているとは到底思えなかった。むしろ缶詰工場で働いて1人暮らしをしていた時の方が、生き生きとして見える。(朱莉は誰にも相談できない様な重大な辛い秘密を抱えているのかもしれないわ……)しかし、とてもそれを確認することは出来なかった。何故なら少しでも朱莉に鳴海翔のことを尋ねようとすれば悲し気な顔を見せるのでとても聞きだす気にはなれなかったのだ。2人の結婚生活については、この話が出た時からずっと疑問に思っていた。(朱莉……もしかして貴女……私の為に鳴海家に身売りしたの……?)しかし、朱莉に尋ねることが出来なかった――「それじゃ、また明日来るね。お母さん」「ねえ、朱莉。何も毎日面会に来なくてもいいのよ? 大変じゃない?」朱莉が部屋を出ようとした時、洋子は声をかけた。「ううん。そんなこと無いよ。毎日お母さんの顔見ないと安心出来無いから。それじゃまた明日ね」笑顔で手を振ると、朱莉は病室を後にした。****「ふう……。今日もまたお母さんに嘘をついちゃったな」イルミネーションが美しい町中を歩きながら朱莉は溜息をついた。朱莉
「こんばんは、九条さん。偶然ですね」「はい、実はそちらのビルに用事があって来ていたんですよ。このドレスを見ていたんですか?」琢磨は青いドレスを指さすと尋ねた。「あ。は、はい。素敵なドレスだなと思って……」朱莉は頬を染めながら答えた。「確かに素敵ですね……。奥様に似合いそうですね」「いいえ。ただ見ていただけですから。それにあったとしても宝の持ち腐れになってしまいますし」「そうでしょうか? 今後必要になるかもしれませんよ?」琢磨は首を傾げ、次の瞬間息を飲んだ。朱莉があまりにも悲し気な目でワンピースを見つめていたからである。「奥様? どうされましたか? そう言えば何故こちらにいらしたんですか?」「あの……九条さん」「はい、何でしょうか?」「奥様って……私はそんなんじゃありませんので、どうか名前で呼んでいただけますか? 始めの頃のように」朱莉は悲し気に言った。「そう言えば最初は朱莉様と言っていましたね。それでは朱莉様で……」「いえ、様付で呼ばれるほどの大した人間ではありませんので、さん付けで呼んでいただけますか?」朱莉は顔を上げて九条を見た。それは真剣な眼差しだった。「分かりました。それでは朱莉さんと呼ばせていただきます」「ありがとうございます。あの……先ほどの九条さんの質問の件ですが……あの病院に母が入院しているんです」朱莉の指さした方向には巨大な病院が建っていた。「そう言えば、朱莉さんのお母様は転院してあちらの病院に移られたのですよね? それでは面会の帰りなのですね?」「はい。あの……翔さんは……どうしてますか?」「はい、副社長ならお元気にしておられますよ? 朱莉さんはもう副社長にクリスマスプレゼントのリクエストはされたのですか?」朱莉がその言葉に一瞬ビクリと肩を動かす。「もしかすると朱莉さんは副社長にリクエストされていないんですか?」琢磨は声のトーンを落とした。「あ、あの。私からリクエストなんて、そんな図々しいことは出来ませんから」「副社長から聞かれなかったのですか? リクエストの話はありましたか?」「ありません……。それに、たとえリクエストを聞かれても……その願いが叶うかどうか……」そこまで言うと朱莉はハッとなった。いくら翔の秘書だとは言え、話し過ぎてしまった。「すみません、九条さん。私、用事があるのでこ
今日はクリスマス・イブ。朱莉は1人広々としたリビングのソファに座り、ため息をついた。「ふう……」テーブルの上には1枚のカードが小さな箱に入って置かれている。それは翔からのクリスマスプレゼントとして、3日前に朱莉の自宅に郵便物として届けられたギフトカードであった。『クリスマス限定レディースプラン・エステ付き宿泊カード』カードにはそう記されている。クリスマスにお1人様向け女性の為のホテル宿泊限定カードが翔からのクリスマスプレゼントだったのだ。「結局翔先輩からクリスマスプレゼントのリクエストの話こなかったな…。クリスマスに私が1人だから気を遣ってくれてこのプレゼントにしてくれたのだろうけど……」朱莉は窓の外を見ながらポツリと呟いた。「プレゼント代わりにお母さんに会いに来て欲しかったな…」ため息をつくと再びギフトカードに目を落した。本当は何処にも行きたくは無かった。まして、こんなお1人様用のホテル宿泊カードをプレゼントされた日には、君には誰一人として一緒にクリスマスを過ごす相手がいない寂しい人間なのだろうと、翔に言われているようで返って惨めな気分になってしまった。だけど……。「翔先輩がわざわざ私の為に吟味してこのプレゼントを考えてくれたんだものね。私ったら卑屈に考えすぎだ。これは先輩からの好意の気持ちが込められていると思って、ありがたく受け取って使わなくちゃね」朱莉はソファから立ち上がると、ベッドルームへ行き、1泊宿泊分の着替えを用意してボストンバックに詰めると、自宅を後にした。行き先はギフトカードに書かれた都心にある高級ホテル。折角初めての翔からの贈り物なのだから無駄にすることは出来ない。多分、翔は明日香と2人でクリスマスを過ごすはずだ。(翔先輩……ホテルの宿泊カードをプレゼントにしたのは私に寂しいクリスマスを過ごさせない為にですか? それとも明日香さんと2人でクリスマスを過ごす事に対して私に気を遣ったからですか―?)朱莉は電車に揺られながら瞳を閉じた――**** ここはベイエリアにある一流高級ホテル。今、このホテルの最上階にあるスイートルームに翔と明日香は宿泊している。「ねえねえ。翔見て。海に夜景が映って、きらきら光ってすごく綺麗よ?」明日香は巨大なガラス張りの窓から見える美しい夜景を背景に翔に声をかけた。「ああ……本当に綺
今日はクリスマス― 琢磨の部屋で目覚まし時計の音が部屋中に鳴り響いている。ピピピピ……「う~ん……」ごそごそとベッドから腕を伸ばし、パチンとアラームを止める。欠伸をしながら大きく伸びをすると琢磨は起き上がった。「ふう……。昨夜は飲みすぎたな……」 昨夜は友人が経営するダーツバーにいた。クリスマスイベントのパーティーが開催されたのだが、どうしても頭数が足りないから来てくれと友人に頼み込まれて、仕方なく出席したのであった。琢磨自身はこのパーティーに長居するつもりは全く無かった。ほんの少しだけ顔を出して友人の顔を立てたら、早々に退散するつもりだったのだが数人の女性に取り囲まれて、帰るに帰れなくなってしまい、結局帰宅出来たのは深夜の2時を回っていたのだ。「……ったく……。もう二度と頼まれても出てやらないからな……」頭をかかえると、スマホが着信を知らせるランプが点滅していることに気が付いた。「うん? 誰からだ……? 翔か?」スマホをタップすると着信相手は朱莉からであった。「朱莉さん……? そういえば昨夜は翔がプレゼントしたホテル宿泊ギフトを利用したのだろうか?」琢磨はすぐにメッセージを開いてみた。『こんばんは。土曜の夜に申し訳ございません。翔さんのプレゼントしてくれたホテル宿泊を本日利用させていただいております。おかげさまでエステに豪華なルームサービスを堪能することが出来ました。その旨を翔さんに伝えていただけますか? 後、1つお願いしたいことがあります。今現在住まわせていただいております部屋ではペットを飼うことは出来るのでしょうか? もし出来るのであれば、小型犬を飼わせていただきたいと思っております。九条さんの方から翔さんに尋ねていただけますか? 申し訳ございません。どうぞよろしくお願いいたします』「ふ~ん……ペットか……」琢磨はスマホのメッセージに目を落しながら呟いた。確かにあの広い部屋に1日中1人きりで過ごすのは寂しいかもしれない。朱莉は外で働いている訳でもない。家で通信教育の勉強と母親の面会の為に病院通いをしているだけの日々を過ごしている。結婚当初、朱莉はパートでもいいから外で働きたいと琢磨を通して翔に希望を出していたのだが、書類上とはいえ鳴海グループの副社長の妻が働く事について世間体を考えた翔が許さなかったのである。「まあ、確かに
「翔さん、落ち着いて下さい。医者の話では出産と過呼吸のショックで一時的に記憶が抜け落ちただけかもしれないと言っていたではありませんか。それに対処法としてむやみに記憶を呼び起こそうとする行為もしてはいけないと言われましたよね?」「ああ……だから俺は何も言わず我慢しているんだ……」「翔さん。取りあえず今は待つしかありません。時がやがて解決へ導いてくれる事を信じるしかありません」やがて、2人は一つの部屋の前で足を止めた。この部屋に明日香の目を胡麻化す為に臨時で雇った蓮の母親役の日本人女子大生と、日本人ベビーシッター。そして生れて間もない蓮が宿泊している。 翔は深呼吸すると、部屋のドアをノックした。すると、程なくしてドアが開かれ、ベビーシッターの女性が現れた。「鳴海様、お待ちしておりました」「蓮の様子はどうだい?」「良くお休みになられていますよ。どうぞ中へお入りください」促されて翔と姫宮は部屋の中へ入ると、そこには翔が雇った蓮の母親役の女子大生がいない。「ん? 例の女子大生は何処へ行ったんだ?」するとシッターの女性が説明した。「彼女は買い物へ行きましたよ。アメリカ土産を持って東京へ戻ると言って、買い物に出かけられました。それにしても随分派手な母親役を選びましたね?」「仕方なかったのです。急な話でしたから。それより蓮君はどちらにいるのですか?」姫宮はシッターの女性の言葉を気にもせず、尋ねた。「ええ。こちらで良く眠っておられますよ」案内されたベビーベッドには生後9日目の新生児が眠っている。「まあ……何て可愛いのでしょう」姫宮は頬を染めて蓮を見つめている。「あ、ああ……。確かに可愛いな……」翔は蓮を見ながら思った。(目元と口元は特に明日香に似ているな)「残念だったよ、起きていれば抱き上げることが出来たんだけどな。帰国するともうそれもかなわなくなる」すると姫宮が言った。「いえ、そんなことはありません。帰国した後は朱莉さんの元へ会いに行けばいいのですから」「え? 姫宮さん?」翔が怪訝そうな顔を見せると、姫宮は、一種焦った顔をみせた。「いえ、何でもありません。今の話は忘れてください」「あ、ああ……。それじゃ蓮の事をよろしく頼む」翔がシッターの女性に言うと、彼女は驚いた顔を見せた。「え? もう行かれるのですか?」「ああ。実はこ
アメリカ—— 明日いよいよ翔たちは日本へ帰国する。翔は自分が滞在しているホテルに明日香を連れ帰り、荷造りの準備をしていた。その一方、未だに自分が27歳の女性だと言うことを信用しない明日香は鏡の前に座り、イライラしながら自分の顔を眺めている。「全く……どういうことなの? こんなに自分の顔が老けてしまったなんて……」それを聞いた翔は声をかける。「何言ってるんだ、明日香。お前はちっとも老けていないよ。いつもどおりに綺麗な明日香だ」すると……。「ちょっと! 何言ってるのよ、翔! 自分迄老け込んで、とうとう頭もやられてしまったんじゃないの? 今迄そんなこと私に言ったこと無かったじゃない。大体おかしいわよ? 私が病院で目を覚ました時から妙にベタベタしてくるし……気味が悪いわ。もしかして私に気があるの? 言っておくけど仮にも血が繋がらなくたって私と翔は兄と妹って立場なんだから! 私に対して変な気を絶対に起こさないでね!?」明日香は自分の身体を守るように抱きかかえ、翔を睨み付けた。「あ、ああ。勿論だ、明日香。俺とお前は兄と妹なんだから……そんなことあるはず無いだろう?」苦笑する翔。「ふ~ん……翔の言葉、信用してもいいのね?」「ああ、勿論さ」「だったらこの部屋は私1人で借りるからね! 翔は別の部屋を借りてきてちょうだい。 あ、でも姫宮さんは別にいて貰っても構わないけど?」明日香は部屋で書類を眺めていた姫宮に声をかける。「はい、ありがとうございます」姫宮は明日香に丁寧に挨拶をした。「それでは翔さん、別の部屋の宿泊手続きを取りにフロントへ御一緒させていただきます。明日香さん。明日は日本へ帰国されるので今はお身体をお安め下さい」姫宮は一礼すると、翔に声をかけた。「それでは参りましょう。翔さん」「あ、ああ。そうだな。それじゃ明日香、まだ本調子じゃないんだからゆっくり休んでるんだぞ?」部屋を出る際に翔は明日香に声をかけた。「大丈夫、分かってるわよ。自分でも何だかおかしいと思ってるのよ。急に老け込んでしまったし……大体私は何で病院にいたの? 交通事故? それとも大病? そうでなければ身体があんな風になるはず無いもの……」明日香は頭を押さえながらブツブツ呟く「ならベッドで横になっていた方がいいな」「そうね……。そうさせて貰うわ」返事をすると
琢磨に礼を言われ、朱莉は恐縮した。「い、いえ。お礼を言われるほどのことはしていませんから」「朱莉さん、そろそろ17時になる。折角だから何処かで食事でもして帰らないかい?」「あ、それならもし九条さんさえよろしければ、うちに来ませんか? あまり大した食事はご用意出来ないかもしれませんが、なにか作りますよ?」朱莉の提案に琢磨は目を輝かせた。「え?いいのかい?」「はい、勿論です。あ……でもそれだと九条さんの相手の女性の方に悪いかもしれませんね……」「え?」その言葉に、一瞬琢磨は固まる。(い、今……朱莉さん何て言ったんだ……?)「朱莉さん……ひょっとして俺に彼女でもいると思ってるのかい?」琢磨はコーヒーカップを置いた。「え? いらっしゃらないんですか?」朱莉は不思議そうに首を傾げた。「い、いや。普通に考えてみれば彼女がいる男が別の女性を食事に誘ったり、こうして買い物について来るような真似はしないと思わないかい?」「言われてみれば確かにそうですね。変なことを言ってすみませんでした」朱莉が照れたように謝るので琢磨は真剣な顔で尋ねた。「朱莉さん、何故俺に彼女がいると思ったの?」「え? それは九条さんが素敵な男性だからです。普通誰でも恋人がいると思うのでは無いですか?」「あ、朱莉さん……」(そんな風に言ってくれるってことは……朱莉さんも俺のことをそう言う目で見てくれているってことなんだよな? だが……これは喜ぶべきことなのだろうか……?)琢磨は複雑な心境でカフェ・ラテを飲む朱莉を見つめた。すると琢磨の視線に気づく朱莉。「九条さんは何か好き嫌いとかはありますか?」「いや、俺は好き嫌いは無いよ。何でも食べるから大丈夫だよ」それを聞いた朱莉は嬉しそうに笑った。「九条さんも好き嫌い無いんですね。航君みたい……」その名前を琢磨は聞き逃さなかった。「航君?」「あ、いけない! すみません、九条さん、変なことを言ってしまいました。そ、それじゃもう行きませんか?」朱莉は慌てて、まるで胡麻化すように席を立ちあがった。「あ、ああ。そうだね。行こうか?」琢磨も何事も無かったかの様に立ち上がったが、心は穏やかでは無かった。(航君……? 一体誰のことなんだろう? まさかその人物が朱莉さんと沖縄で同居していた男なのか?それにしても君付けで呼ぶなん
14時―― 朱莉がエントランス前に行くと、すでに琢磨が億ションの前に車を停めて待っていた。「お待たせしてすみません。九条さん、もういらしてたんですね」朱莉は慌てて頭を下げた。「いや、そんなことはないよ。だってまだ約束時間の5分以上前だからね」琢磨は笑顔で答えた。本当はまた今日も朱莉に会えるのが嬉しくて、今から15分以上も前にここに到着していたことは朱莉には内緒である。「それじゃ、乗って。朱莉さん」琢磨は助手席のドアを開けた。「はい、ありがとうございます」朱莉が助手席に座ると、琢磨も乗り込んだ。シートベルトを締めてハンドルを握ると早速朱莉に尋ねた。「朱莉さんは何処へ行こうとしていたんだっけ?」「はい。赤ちゃんの為に何か素敵なCDでも買いに行こうと思っていたんです。それとまだ買い足したいベビー用品もあるんです」「よし、それじゃ大型店舗のある店へ行ってみよう」「はい、お願いします」琢磨はアクセルを踏んだ――**** それから約3時間後――朱莉の買い物全てが終了し、車に荷物を積み込んだ2人はカフェでコーヒーを飲みに来ていた。「思った以上に買い物に時間がかかってしまったね」「すみません。九条さん……私のせいで」朱莉が申し訳なさそうに頭を下げた。「い、いや。そう意味で言ったんじゃないんだ。まさか粉ミルクだけでもあんなに色々な種類があるとは思わなかったんだよ」「本当ですね。取りあえず、どんなのが良いか分からなくて何種類も買ってしまいましたけど口に合う、合わないってあるんでしょうかね?」「う~ん……どうなんだろう。俺にはさっぱり分からないなあ……」琢磨は珈琲を口にした。「そう言えば、すっかり忘れていましたけど、九条さんの会社はインターネット通販会社でしたね?」「い、いや。俺の会社と言われると少し御幣を感じるけど……まあそうだね」「当然ベビー用品も扱っていますよね?」「うん、そうだね」「それでは今度からはベビー用品は九条さんの会社で利用させていただきます」「ありがとう。確かに新生児がいると母親は買い物も中々自由に行く事が難しいかもね。……よし、今度の企画会議でベビー用品のコンテンツをもっと広げるように提案してみるか……」琢磨は仕事モードの顔に変わる。「ついでに赤ちゃん用の音楽CDもあるといいですね。出来れば視聴も試せ
朝食を食べ終わり、片付けをしていると今度は朱莉の個人用スマホに電話がかかってきた。それは琢磨からであった。昨夜琢磨と互いのプライベートな電話番号とメールアドレスを交換したのである。「はい、もしもし」『おはよう、朱莉さん。翔から何か連絡はあったかい?』「はい、ありました。突然ですけど明日帰国してくるそうですね」『ああ、そうなんだ。俺の所にもそう言って来たよ。それで明日香ちゃんの為に俺にも空港に来てくれと言ってきたんだ。……当然朱莉さんは行くんだろう?』「はい、勿論行きます」『車で行くんだよね?』「はい、九条さんも車で行くのですね」『それが聞いてくれよ。翔から言われたんだ。車で来て欲しいけど、俺に運転しないでくれと言ってるんだ。仕方ないから帰りだけ代行運転手を頼んだんだよ。全く……いつまでも俺のことを自分の秘書扱いして……!』苦々し気に言う琢磨。それを聞いて朱莉は思った。(だけど九条さんも人がいいのよね。何だかんだ言っても、いつも翔先輩の言うことを聞いてあげているんだから)朱莉の思う通り、琢磨自身が未だに自分が翔の秘書の様な感覚が抜けきっていないのも事実である。それ故、多少無理難題を押し付けられても、つい言いなりになってしまうことに琢磨自身は気が付いていなかった。「でも、どうしてなんでしょうね? 九条さんに運転をさせないなんて」朱莉は不思議に思って尋ねた。『それはね、全て明日香ちゃんの為さ。明日香ちゃんは自分がまだ高校2年生だと思っているんだ。その状態で俺が車を運転する訳にはいかないんだろう。全く……せめて明日香ちゃんが自分のことを高3だと思ってくれていれば、在学中に免許を取ったと説明して運転出来たのに……』琢磨のその話がおかしくて、朱莉はクスリと笑ってしまった。「でもその場に私が現れたら、きっと変に思われますよね? 明日香さんには私のこと何て説明しているのでしょう?」『……』何故かそこで一度琢磨の声が途切れた。「どうしたのですか? 九条さん」『朱莉さん……君は何も聞かされていないのかい?』「え……?」『くそ! 翔の奴め……いつもいつも肝心なことを朱莉さんに説明しないで……!』「え? どういうことですか?」(何だろう……何か嫌な胸騒ぎがする)『俺も今朝聞いたばかりなんだよ。翔は現地で臨時にアルバイトとして女子大生と
「それじゃ、朱莉さん。次は翔から何か言ってくるかもしれないけど、くれぐれもアイツの滅茶苦茶な要求には答えたら駄目だからな?」タクシーに乗り込む直前の朱莉に琢磨は念を押した。「九条さんは随分心配性なんですね。私なら大丈夫ですから」朱莉は笑みを浮かべた。「もし翔から契約内容を変更したいと言ってきたら……そうだな。まずは俺に相談してから決めると返事をすればいい」するとタクシー運転手が話しかけてきた。「すみません。後が詰まってるので……出発させて貰いたいのですが……」「あ! すみません!」琢磨は慌ててタクシーから離れると、朱莉が乗り込んだ。車内で朱莉が琢磨に頭を下げる姿が見えたので、琢磨は手を振るとタクシーは走り去って行った。「ふう……」タクシーの後姿を見届けると、琢磨はスマホを取り出して、電話をかけた。「もしもし……はい。そうです。今別れた所です。……ええ。きちんと伝えましたよ。……後はお任せします。え? ……いいのかって? ……あなたなら何とかしてくれるでしょう? それだけの力があるのですから。……失礼します」そして電話を切ると、夜空を見上げた。「雨になりそうだな……」**** 翌朝――6時朱莉はベッドの中で目を覚ました。昨夜は琢磨から聞いた翔の伝言で頭がいっぱいで、まともに眠ることが出来なかった。寝不足でぼんやりする頭で起きて、着替えをするとカーテンを開けた。「あ……雨……。どうりで薄暗いと思った……」今日は朱莉の車が沖縄から届く日になっている。車が届いたら朱莉は新生児に効かせる為のCDを買いに行こうと思っていた。これから複雑な環境の中で育っていく子供だ。せめて綺麗な音楽に触れて、情操教育を養ってあげたいと朱莉は考えていた。洗濯物を回しながら朝食の準備をしていると、翔との連絡用のスマホに着信を知らせる音楽が鳴った。(まさか、翔先輩!?)朱莉はすぐに料理の手を止め、スマホを見るとやはり翔からのメッセージだった。今朝は一体どんな内容が書かれているのだろう? 翔からの連絡は嬉しさの反面、怖さも感じる。好きな人からの連絡なのだから嬉しい気持ちは確かにあるのだが問題はその中身である。大抵翔からのメールは朱莉の心を深く傷つける内容が殆どを占めている。(やっぱり契約内容の変更についてなのかなあ……)朱莉はスマホをタップした。『おは
「本当はこんなこと、朱莉さんに言いたくは無かった。だが翔が仮に今の話を直接朱莉さんに話したとしたら? 恐らく翔のことだ。きっと再び朱莉さんを傷付けるような言い方をして、挙句の果てに、これは命令だとか、ビジネスだ等と言って強引に再契約を結ばせるつもりに違いない。だがそんなこと、絶対に俺はさせない。無期限に朱莉さんを縛り付けるなんて絶対にあってはいけないんだ」琢磨は顔を歪めた。(え……無期限に明日香さんの子供の面倒を? それってつまり偽装婚も無期限ってこと……?)なので朱莉は琢磨に尋ねた。「あの……それってつまり翔さんは私との偽装結婚を無期限にする……ということでもあるのですよね?」(そうしたら、私……もう少しだけ翔先輩と関わっていけるってことなのかな?)しかし、次の瞬間朱莉の淡い期待は打ち砕かれることになる。「いや、翔の言いたいことはそうじゃないんだ。当初の予定通り偽装婚は残り3年半だけども子育てに関しては明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで続けて貰いたいってことなんだよ」「え……?」「つまり、翔は3年半後には契約通りに朱莉さんと離婚して、子供だけは朱莉さんに引き続き面倒を見させる。しかも明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで、無期限にだ。こんな虫のいい話あり得ると思うかい?」「……」朱莉はすっかり気落ちしてしまった。(やっぱり……ほんの少しでも翔先輩から愛情を分けて貰うのは所詮叶わないことなの? でも……)「九条さん」朱莉は顔を上げた。「何だい」「私、明日香さんと翔さんの赤ちゃんを今からお迎えするの、本当に楽しみにしてるんです。例え自分が産んだ子供で無くても、可愛い赤ちゃんとあの部屋で一緒に暮らすことが待ちきれなくて……」「朱莉さん……」「九条さん。もし、子供が3歳になっても明日香さんが記憶を取り戻せなかった場合は、翔さんは私に引き続き子供を育てて欲しいって言ってるわけですよね? それって……翔さんは記憶の戻っていない明日香さんにお子さんを会わせてしまった場合、お互いにとって精神面に悪影響が出るのではと苦慮して私に預かって貰いたいと思っているのではないでしょうか? だって、考えても見てください。ただでさえ10年分の記憶が抜けて自分は高校生だと信じて疑わない明日香さんに貴女の産んだ子供ですと言って対面させた場合、明日香さんが正常でいられると
明日香が10年分の記憶を失い、高校生だと思い込んでいる話は朱莉にとってあまりにもショッキングな話であった。「朱莉さん、大丈夫かい? 顔色が真っ青だ」「は、はい。大丈夫です。でもそうなると今一番大変なのは翔先輩ではありませんか?」朱莉は翔のことが心配でならなかった。あれ程明日香を溺愛しているのだ。17歳の時、翔と明日香は交際していたのだろうか? ただ、少なくとも朱莉が入学した当時の2人は交際しているように見えた。「朱莉さん、翔が心配かい?」琢磨が少し悲し気な表情で尋ねてきた。「はい、とても心配です。勿論一番心配なのは明日香さんですけど」「やっぱり朱莉さんは優しい人なんだね」(あの2人に今迄散々蔑ろにされてきたのに……それらを全て許して今は2人をこんなに気に掛けて……)「何故翔さんは九条さんに連絡を入れてきたのですか? それに、どうして九条さんから私に説明することになったのでしょう?」朱莉は琢磨の瞳をじっと見つめた。「俺も、2日前に翔から突然メッセージが届いたんだよ。あの時は驚いた。翔と決別した時に、アイツはこう言ったんだよ。互いに二度と連絡を取り合うのをやめにしようと。こちらとしてはそんなつもりは最初から無かったけど、翔がそこまで言うのならと思って自分から二度と連絡するつもりは無かったんだ。それなのに突然……」そして、琢磨は近くを通りかかった店員に追加でマティーニを注文すると朱莉に尋ねた。「朱莉さんはどうする?」「それでは私はアルコール度数が低めのお酒で」「それなら、『ミモザ』なんてどうかな? シャンパンをオレンジジュースで割った飲み物だよ。アルコール度数も8度前後で、他のカクテルに比べると度数が低い」琢磨はメニュー表を見ながら朱莉に言った。「はい、ではそちらを頂きます」「かしこまりました」店員は頭を下げると、その場を立ち去っていく。すると琢磨が再び口を開いた。「明日香ちゃんは自分を高校生だと思い込んでいるから、当然翔の隣にはいつも俺がいるものだと思い込んでいるらしいんだ。考えてみればあの頃の俺達はずっと3人で一緒に高校生活を過ごしてきたようなものだからね。それで明日香ちゃんが目を覚ました時、翔に俺のことを聞いてきたらしい。『琢磨は何処にいるの?』って。それで一計を案じた翔が明日香ちゃんを安心させる為に、もう一度3人で会いた
「九条さんが【ラージウェアハウス】の新社長に就任した話はニュースで知ったんです。あの時九条さん言ってましたよね? 鳴海グループにも負けない程のブランド企業にするって」「ああ、あの話か……。あれは……まあもう1人の社長にああいうふうに言えって半ば命令されたからさ。自分の意思で言った訳じゃ無いが正直、気分は良かったな」琢磨は笑みを浮かべる。「あの翔に一泡吹かせることが出来たみたいだし。初めはテレビインタビューなんて御免だと思ったけどね。大分、翔の奴は慌てたらしい」朱莉もカクテルを飲むと琢磨を見た。「え? その話は誰から聞いたんですか?」「会長だよ」琢磨の意外な答えに朱莉は驚いた。「九条さんは会長と個人的に連絡を取り合っていたのですか?」「ああ、そうだよ。実は以前から会長に秘書にならないかと誘われていたんだ。でも俺は翔の秘書だったから断っていたんだけどね」「そうだったんですか」あまりにも驚く話ばかりで朱莉の頭はついていくのがやっとだった。「それにしても朱莉さんも随分雰囲気が変わったよね? 前よりは積極的になったようだし、お酒も飲めるようになってきた。……ひょっとして沖縄で何かあったのかい?」琢磨の質問に朱莉は一瞬迷ったが、決めた。(九条さんだって話をしてくれたのだから、私も航君のこと、話さなくちゃ)「実は……」朱莉は沖縄での航との出会い、そして別れまでを話した。もっとも名前を明かす事はしなかったが。一方の琢磨は朱莉の話を呆然と聞いていた。(まさか朱莉さんが男と同居していたなんて。しかもあんなに頬を染めて嬉しそうに話してくるってことは……その男、朱莉さんに取って特別な存在だったのか?)朱莉が沖縄で男性と同居をしていた……その事実はあまりに衝撃的で、琢磨の心を大きく揺さぶった。「それでその彼とは東京へ戻ってからは音信不通……ってことなのかい?」内心の動揺を隠しながら琢磨は尋ねた。「はい。そうです。だから条さんとは連絡が取れて嬉しかったです。ありがとうございました」お酒でうっすら赤く染まった頬ではにかみながら琢磨にお礼を言う朱莉の姿は琢磨の心を大きく揺さぶった。「そ、そんな笑顔で喜んでくれるなんて思いもしなかったよ。でも……そうか。朱莉さんが以前よりお酒を飲めるようになったのはその彼のお陰なんだね?」「そうですね……。きっとそう